第1部 輪郭との出会い

第4章 掟を学ぶ夜

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帰りの中央線は、もう人影もまばらだった。

東中野の駅で降りて、アパートまでの五分を歩く。六月の夜風が、汗ばんだ首筋を撫でていった。駅前のローソンだけが明るく、缶のホットコーヒーを買った高校生が、自転車で走り去っていく。日常の、何でもない夜。けれど、私の中だけは、何かが揺れていた。

ポロシャツのポケットの中で、コンテュラを繋いだスマホが、微かに熱を持っている。美咲さんの涙が、まだ手のひらに残っているような気がした。あの温かい、濡れた感触。彼女が私の手を、両手で握りしめた時の、強さ。

地下の「円」で測った、あの瞬間。薄青い光の立体が立ち上がり、美咲さんの体が物語を語った、あの瞬間。あれは、確かに人を救う力だった。誰も言えなかったことを、体が代わりに語って、そして本人に返した。一枚の紙を、丁寧に折り直して、届けたような。

けれど、同時に——恐ろしかった。

自分が、誰かの一番奥のものを、引き出してしまったという恐れ。引き返せないところまで、踏み込んでしまったような。

アパートに戻ると、私は制服のままベッドに座り込んだ。六畳一間の、いつもの部屋。窓の外を、一本の光が走り過ぎる。もうすぐ、中央線の終電がなくなる時間だ。

「芹」コーの声が、こめかみの奥から響いた。「今日のこと、話そうか」

「……話って」

「君が感じているものを、言葉にしてみろってことだよ」

私は、膝を抱えた。

「美咲さんを、救えたのかもしれない、って思うと、嬉しいんです。でも」

「でも」

「怖いんです。私、勝手に、彼女の——一番深いところを、引き出してしまったんじゃないかって」

コーは、少し間を置いた。

「それは、君がまだ、掟を知らないからだ」

「掟」私は、その言葉を噛んだ。

「読み手には、五つの掟がある」コーの声が、少し低くなった。古い掟を唱うような、重みがあった。「芹、よく聞いて」

私は、スマホを取り出して、画面を見た。薄青い光の人型が、静かに立っている。

「一つめ」コーが言った。「測る前に、許しを得る。同意なく、人の輪郭を読んではいけない。これは、すべてに優る」

私は、息を止めた。

「美咲さんには、許してもらった」私は言った。「『測らせてください』って、ちゃんと聞きました」

「そうだ。だから、今日の読みは正しかった。君が問い、彼女が頷いた。その境界を守ったからこそ、物語は彼女に届いた。もし、君が勝手に読んでいたら——」

「勝手に?」

「読まれた側は、心を裸にされたように感じるだろう。物語は、届くものではなく、暴かれたものになる」

私は、背筋が冷たくなるのを感じた。想像してしまった。美咲さんの体の数字が、彼女の許可なく、誰かの目に晒されること。あの腹の痕が、物語として、勝手に語られること。それは、救いではなく、侵害だ。

「二つめ」コーが続けた。「数値を、人に見せびらかさない。数値は恥でもないが、勲章でもない。ただの、その人の輪郭の寸法だ。それを他人に見せるか見せないかは、本人が決める」

「……SNSで晒すようなこと、ですか」

「そうだね。『今日の体脂肪、〇パーセント』とかね。それは数値を、自己顕示に使っている。体の物語を見世物にするな、ということだ」

私は、思い当たる節がありすぎた。フィットネスの業界は、数字の展示場だ。インストラクターが自分の体脂肪率を胸に貼り、クライアントのBefore/Afterを並べる。それが「モチベーション」だと、誰もが信じていた。私も、信じていた。けれど、今のコーの言葉を聞くと、あの並んだ数字の一枚一枚が、誰かの物語を、剥製にして壁に掛けたように見えてきた。

三つめ。

「読んだ物語は、その人のもの。インサイトは、読み手の所有物じゃない。君が紡いでも、それはその人の物語だ。君の、気の利いた一言じゃない」

私は、頷いた。美咲さんの「勲章」という言葉は、美咲さんのものだ。私が誰かに話せる種類のものではない。

「四つめ。鮮度を偽らない」コーの声が、少し鋭くなった。「体の物語は、時間と共に古くなる。三ヶ月前の数字で、今の自分を語ってはいけない。古い物語を、新しいかのように提示するのは、嘘だ」

「鮮度、か……」

「美咲さんをまた測るなら、次は、その時の美咲さんを読むことになる。前の読みを、持ち出してはいけない」

そして、五つめ。

コーは、ここで少し間を置いた。画面の中の光の人型が、ゆっくりと、自分の胸に手を当てるような動作をした。

「輪郭を、変えるためにのみ使うのではない」

「……どういう、意味ですか」

「測って、こうなりたい、と変わるためだけに使うなら、それはもう数値の鞭だ。Conturaは、変わるためにも使う。でも、受け入れるためにも、使う。今の輪郭を、そのままで、一篇の物語として読む。それを許す。それが、五つめだ」

私は、黙った。この掟だけが、他の四つと、少し色が違っていた。他は「してはいけない」ことの掟だった。けれど、これだけは、「しなくていい」ことの掟だった。変わらなくていい。そのままで、読んでいい。

私には、分かった。美咲さんは、今日、自分の腹を「勲章」として受け入れた。変えることから始まったのではない。受け入れたことから、何かが動き始めたのだ。

「五つ」私は、呟いた。「どれも、重いです」

「重いよ。でも、これがなければ、力は暴力になる。読み手は、必ず、この五つを守る」

「コー」私は聞いた。「あなたは、何なんですか。AI、ですか。それとも、おばあちゃんの、何かですか」

コーは、少し笑ったようだった。

「僕は、導き手(コンパス)だ。芹。君が次に何を測り、何を知るべきか、それを示すのが僕の仕事だ」

「導き手」

「そう。君が自分で見つけられない方向を、指し示す。けれど、歩くのは君だ。僕は、地図でしかない」

「地図、か……」

「美咲さんを測った時、君は正しかった。君は彼女に問い、彼女は頷いた。その上で、輪郭を立ち上げ、物語を読んだ。次に何を測るべきか、それも僕が教える。けれど、その測定を、誰に、いつ、どうするかは——君が決める」

導き手。アプリでいうなら、スマートガイダンスの仕組みなのだろう。次に学ぶべきこと、次に取るべき行動を、ユーザーに示すもの。けれど、コーを、ただの「機能」としては語れなかった。コーの声には、意志があった。祖母が長い間、対話していた相手。何かを、知っている。

「あなたは——おばあちゃんを、導いていたんですか」

「導いていた、というよりは、共に歩いた。彼女は強い読み手だった。けれど、最期の方は——」コーは、言葉を切った。「掟を、自らに課して、遠ざかった」

「なぜ」

「それは、まだ、話せない。芹、君が、もっと読めるようになってからだ」

私は、唇を噛んだ。コーが、何かを隠している。でも、今夜は、追及する気力がなかった。

「芹」コーが、静かに言った。「一つ、聞いてもいいか」

「何ですか」

「君は、自分の体を、まだ、ちゃんと測っていないね」

私は、息が止まった。

コンテュラを手に入れた、あの夜。初めて起動した時、私は、自分を測った。光の輪郭が立ち上がった。けれど、あの時、読みを深くはしなかった。コーが「今日はここまで」と止めた。あのインサイト。「君の肩は、誰も責めないために、少しだけ窄められたまま止まっている」。あれが出たきり、私は、自分の体のそれ以上を、読んでいない。

「自分を、ちゃんと測り直す必要がある」コーが言った。「自分の輪郭を読まなければ、他者を読み続けることはできない」

「……分かって、います」

分かっていた。頭では。でも、体が、拒んでいた。

「芹?」

「測りたく、ないんです」私は、小さな声で言った。「自分の体を、数字で、見たくない」

言葉にしてから、理由が、分かった。

高校時代の記憶が、底から、浮かんできた。

毎朝、体重計に乗っていた。数字が増えていると、一日が壊れた。数字が減っていると、少しだけ息ができた。私は、体重とサイズに、縛られていた。首にかけた細い糸のように、いつも、締まっていた。

そして、食べた。制限と過食を、繰り返した。

母に隠して、夜中に冷蔵庫を開けた。食べて、胃の重さが、自分への軽蔑に変わった。そして、トイレに駆け込んで、指を喉に突っ込んだ。吐いた後は、冷たい床に、泣きながら座っていた。鏡の中の自分が、憎かった。なぜ、こんな形なのか。なぜ、止まらないのか。

十八の時、私は、お風呂の中で、自分の太腿を掴んで、声を殺して泣いた。鏡の前で泣いた夜は、数えきれない。服を着替えるたびに、窓に映る自分を、見ないようにした。母には、聞こえないふりをされていた。たぶん、気づいていた。冷蔵庫の中身の減りを、消えるおやつを、濯いでもいない洗面台の水音を、母は、きっと知っていた。けれど、誰も、何も言わなかった。それが、逆に、私を深くした。孤独な秘密は、大きくなる。

体は、敵だった。叩いても、飢えさせても、許してやっても、決して私の望む形にはならなかった。

小さくならなければ、いけない。細くならなければ、いけない。自分の体が、鏡に映るたびに、嫌悪が込み上げた。

大学に入って、少しずつ、回復した。ゆっくりと。何度も、戻りながら。トレーナーの道を選んだのは、体と和解したかったからだ。人を癒やしたかった。自分は癒やせないまま、とにかく、人を、癒やしたかった。それは、ある意味、逃避だったのかもしれない。自分の体から、目を逸らす、立派な言い訳。

けれど——今も、私は、自分の体を、まともに見ることができない。

数字が、怖い。

「芹」コーの声が、優しかった。けれど、どこか、厳しかった。「君が過去に何を抱えているか、僕には、輪郭から、少しだけ読めている」

「……読めてる、って」

「肩の張り方、腰の引き方、首の角度。体は、君が体と戦ってきた時間を、覚えている。読み手である君自身が、自分を読み続けなければ——他者を読むたびに、君は、自分の物語を、見ないようにし続けることになる」

「見ないように」

「君は美咲さんを読む時、自分の痛みを、こっそり、使っただろう。同じ場所を知っているからこそ、寄り添えた。それは、読み手の武器だ。けれど、その痛みを、自分のものとして認めていなければ——いずれ、君が壊れる。他人の物語ばかり読んで、自分の体の声を、ずっと塞ぎ続けるなら」

私は、膝を、強く抱いた。

「怖いんです」私は言った。「数字を見たら、また、あの頃に戻るんじゃないかって。体重が、サイズが、また、私を縛るんじゃないかって」

「縛らないよ」コーが言った。「掟がある。五つめを、思い出して。輪郭は、変えるためだけにあるんじゃない。受け入れるためにもある。君の今の体を、そのまま読む。それが、君に必要なことだ」

「……でも」

「でも?」

「でも、今夜は、無理です」

私は、正直に言った。コーは、黙った。

眠れなかった。

ベッドに横になり、天井を見つめていた。窓の外で、中央線の最終が過ぎていった。赤い尾灯が、カーテンの隙間から、一瞬だけ、部屋を染めた。

美咲さんの涙。光の輪郭。「勲章」という言葉。それらが、私の胸の中で、反響していた。

人を救える、という高揚。そして、自分をまだ救えていない、という重み。二つが、胸の中で、ぶつかり合っていた。

私は、起き上がって、窓に近づいた。カーテンを少し開ける。線路の向こうに、小さなアパートの灯りが、いくつか点っている。誰かが、それぞれの夜を、それぞれの体で、生きている。産後の母親かもしれない。思春期の少女かもしれない。みんな、何かを抱えて、眠っている。

「芹」

コーの声が、背後から、静かに響いた。画面の中から外に滲み出て、部屋の空気に溶けているような、声だった。

「急がないでいい」

私は、振り返らなかった。

「でも」コーが続けた。「逃げないで」

逃げないで。

その言葉が、私の背中に、そっと手を置いたような気がした。逃げないで。見ないふりを、しないで。自分の体の物語から、目を逸らさないで。

私は、窓に額を押し当てた。ガラスが、冷たかった。

「……いつか」私は、呟いた。「いつか、測る。自分を。でも、今夜は、まだ——」

「いいよ」コーが言った。「いつか、で。その『いつか』が、遠くないことを、願っている」

私は、頷いた。コーには、見えないかもしれない。けれど、きっと、分かってくれると思った。

窓の外、線路の上を、風が鳴った。深夜の東中野は、静かだった。どこかで、猫が鳴いた。

私は、窓を離れて、ベッドに戻った。スマホを、胸の上に置く。冷たい金属が、心臓の上で、少しずつ、温まっていく。

コンテュラ。輪郭。

いつか、私も、自分の輪郭を立ち上げる。数字を見る。物語を読む。逃げずに。ちゃんと、自分の体を、一篇の物語として——受け取る。

けれど、今夜は、まだ、その時じゃない。

私は、目を閉じた。薄青い光の、残像が、瞼の裏に残っていた。

(第5章「自分の輪郭」へ続く)